アドラー心理学 野田俊作

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近代的自我

2004年04月06日(火)



 勉強会をしていて、たまたま「自我」の話になった。私が高校時代には、なんだか「日本人は近代的自我が確立していないが、これは困ったことだ」というたぐいの話をたくさん聞かされた。しかし、今は、近代的自我なんてとんでもないと思っている。自我って、要するに、「会社に文句言わずに勤める能力」のことでしょう。「上司の命令が不合理でも何でも、生きていくためなんだから、辛抱して従うしかないんだ」と思う人は、「自我が強い」わけだ。

 そう言うと、参加者のうちの2人が、「ええっ!」と驚いた。会社へ勤めなくても生きていけるのが、自我が確立していることだと思っていたみたいだ。つまり、自我が確立しておれば「自分の人生を自分で決めることができるので、人に支配されないで生きていける」という理屈みたいだ。「文部省が、そんなことを生徒に勧めるわけがないじゃないですか」と私は言った。

 トリックはとても巧妙にできている。職業選択の自由があって、理論上は自分の意志で会社を選ぶわけだし、いやになれば自分の意志でやめることも、理論上はできるわけだ。その点では封建時代とは違っている。江戸時代だと、武士の息子は武士だし、農民の息子は農民だ。それどころか、家老の息子は家老で、足軽の息子は足軽だ。なにも選択できない。だから、近代的自我もいらない。明治以後、さまざまの「自由」ができたおかげで、自我が必要になった。

 しかし、本当に自由なのかね。自分の意志で人生を本当に選べるのかね。たとえば、自由意志で就職したい会社に就職なんか、実際上はできない。就職してから自由意志を働かせたりしたら、たちまちクビになる。自由意志で退職したら、たちまち食いつめる。資本主義社会は個人をがんじがらめに縛っている。しかも、すべてを自由意志による選択であるかのように思わせるための魔法を使っている。その魔法の呪文が「近代的自我」だ。

 フロイトまで遡って考えるとわかりやすい。イド(本能)からの欲求と超自我(社会)からの命令や禁止とを調停するのが自我の役割なわけで、わかりやすく言うと、「わがままを言わないで辛抱する力」のことでしょう。実際、不登校をする子どもや、会社で不適応になってうつ状態になる社員を、心理学者は「自我が弱い」と考える。逆に、自我が強くなると、「社会適応」がよくなるわけだ。しかして、社会適応とは、教師や上司の不合理な命令を辛抱して聞く生活が平気であることだ。