仲正昌樹[2003]『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』(ちくま新書)ASIN:4480061320

ハンナ・アーレント、ルソー、ドゥルーズ、ハーバマス、ロールズネグリといった思想の紹介と、文部科学省の教育答申みたいな文章がどういう思考あるいは思考のなさの結果として出来ているのかを書いてある、とても親切で便利な本。

役人に、あるいは、社内の役場的な部門の担当者に理屈が通らない理屈を言われた挙句、冷笑されたりして、なんともいえないムカつきを感じたりしたときに、ムカつくとか、××××、××××などというのではなく、「アイヒマンのような悪の凡庸」と言ったところで、そいつらの行動が変わるわけではないのだが、グーパンチをぶつける代替物としての政治的抵抗権を行使するにはどうすればいいか、ということを日々考えている者からすれば、「バカ学生に自己決定などできない」という象牙の中の本音はどうでもよくって、無色透明を求められるサラリーマンしながらでも色を持てるにはどうすればいいか、マルチチュードってそういうことじゃないの?、社会人がみんなそうなり始めたときに、大学にいるものとして、二十歳そこそこの学生の通過儀礼にうんざりした表情を向けているだけでいいの?、と、聞いてみたいのだが、そこは「自己決定」していないようなのだ。